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2020年2月17日 (月)

五輪ノススメ

 2020年東京オリンピックまであと半年を切り、テレビや電車内の企業広告、街中でもいたるところでオリンピックのロゴなどを見かけるようになってきた。オリンピックという一大イベントを大きな商機と捉え、チャンスを逃すまいと戦略を練り準備をしている企業も多い。2017年に東京都が出した試算によると、2013年の開催決定から2030年までの18年間でその経済効果は約32兆円と言われており、この約32兆円の果実を授かろうと多くの企業が策を巡らし日々奔走するのは必定だろう。そのようなオリンピックムードの高まりの中で私が皆さんに改めて投げかけ足を止めて一度考えてもらいたいことを本稿では述べていきたい。それは、オリンピック開催による経済的側面に注力し、その果実をそのまま貪ることに終始するのではなく、オリンピックという果実を種とし、経済的な恩恵以上に国際社会において日本としてどのように力をつけ発揮していくきっかけとするかということである。

 

 というのも、その根底にある危機感には、昨今いろいろな面で叫ばれている日本という国の国力低下がある。日経新聞にも2019年5月29日付で「日本の競争力は世界30位、97年以降で最低 IMD調べ」というタイトルで記事が書かれていた。

 

 ご参考までに記事の内容を抜粋する。

 

  “スイスの有力ビジネススクールIMDは28日、2019年の世界競争力ランキングを発表した。日本の総合順位は30位と前年より5つ順位を下げ、比較可能な1997年以降では過去最低となった。企業の生産性の低さや経済成長の鈍化などが理由で、アジアの中での地盤沈下も鮮明になっている。”

 

 

 私はこういった国力低下の背景として大きな要因を占めているのが、日本国民のアイデンティティの希薄化にあるのではないかと思う。(なお、念のため、私自身は無宗教であり、何ら権力や組織に対する阿りは持たないので、本稿もそういう主旨ではないし徒然に思うことを書き連ねているので皆さんの刺激の一助としていただければ十分である。)

 

 日本という国が国力低下から脱するために必要な条件とは何であろうか。物事を考察する上ではタテ(時間:歴史視点)とヨコ(空間:グローバル視点)の視点で見ることが重要だが、まずタテの視点で見たときに歴史の中で国力と言わないまでも日本を動かし活性化させることができていたのは、いつの時代であっただろうか。私がすぐに浮かぶのは明治維新の倒幕運動や戦後復興による高度経済成長期の話である。細かい話は割愛するが、江戸幕府に対抗した運動を巻き起こした薩長土肥の維新志士たち、米国に追い付け追い越せで躍起になっていた日本国民たち、どちらも強い信念・精神性に下支えされることでそれが活力につながっていたのではないだろうか。ヨコの視点で見るならば、例えばベトナムとカンボジアなどはどうだろうか。ベトナムとカンボジアはどちらもフランス占領下にあった時代背景から紆余曲折を経て現在に至るが、カンボジアは一人当たりGDPで見ても東南アジアの中で一番低く、現状ベトナムの方が経済発展を遂げていると言える。あくまで私見だが、カンボジアにはなくてベトナムにあるものとして、決して定量化はできないものの、ベトナム戦争による、国民意識の高まりが、ベトナムという国における活性化の一助になっているのではないだろうか。

 

 タテヨコどちらでみても、何かしらへの対抗として芽生えたものであれ、国民(メンバー)のアイデンティティが国力(組織)活性化の重要なドライバーになるとするならば、今の日本はどうであろうか。

 

 日本人の精神性を表すキーワードは皆さんも様々浮かぶことだろう。そしてそれは欧米のそれとは明らかに異なっている。

 例えば、万物に神が宿るとする、“八百万神”の考え方はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった唯一神の考え方とは大きく異なる。調和の取れた世界を美とする“和”の精神はその考え方の影響を受けていると考えられるが、“和”の精神も日本人を表すキーワードの代表格だろう。ほかにも“死することと見つけたり”で有名な武士道なんかもそうかもしれない。陰陽の考え方でいうならば、欧米が“陽”の文化であることに対し、「もののあわれ」や「お蔭様で」という言葉に代表されるように日本は“陰”の文化であるといえる。世阿弥の“風姿花伝”の有名な1節に「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」とあるように、“陰”の美徳を大事にしてきた精神性がそこにはある。

 

 冒頭で“経済的効果という果実を貪るだけではなく、その種を国際社会における日本の力につなげていく”と述べたが、東京オリンピックというイベントを契機に、そういった精神性を今一度見つめ直し、国力復活への活力ドライバーとしていくことこそ重要ではないだろうか。実際、1964年の東京オリンピックの際も、目覚ましい経済発展を遂げていく一方でマナーが悪くなっていった日本国民(1964年 1月 23日当時の朝日新聞「天声人語」が,「このごろの日本の公衆道徳の乱れ方はひどい。自分さえラクなら他人のことは知るものか,という利己主義だらけになっては,いくら経済成長下だろうと技術革新下だろうと,住みよい社会になるわけがない。」と嘆いている。)に対し、官主導で公衆道徳,商業道徳,交通道徳を向上させ,国土美化と健康増進をめざすとする「オリンピック国民運動」を展開しており、経済的な価値だけでなく、精神性やモラリティに対する向上の良い契機となっていた過去がある。

 さらに付け加えるならば、活力へのドライバーにしていく上で、守りではなく攻める姿勢を持つことを常に意識していくことがポイントになるのではないだろうか。海外渡航が大罪である時代に吉田松陰は「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」と歌い、国を思い覚悟をもってロシア艦隊に乗り込み留学することを企図した。きっと吉田松陰の語る「大和魂」とは“大いなる和”を希求する攻めの精神性であり、「現状維持・やらない・波風立てない」ことによる“小なる和”を希求する守りの精神性ではないのではないかと思う。今の世界における“大いなる和”とは何で日本は何ができるのであろうか。

 

 私自身も日本に生まれた身として、この東京オリンピックというイベントを、何か浮足立って性急に果実を食べに行くのではなく、地に足をつけて自身のアイデンティティの根を生やすきっかけにし、今一度日本だからこそできることを考え、外国から来られる方々を歓待することにつなげていきたい。

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