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2019年6月

2019年6月24日 (月)

遊ぶ脳(その二)

 晴れた日は朝の陽ざしが眩しい東向きのリビングだが、今朝は蕭々と降る雨音に包まれていて、窓辺のねむの木も心なしか葉の開きが遅いようだ(ねむの木は朝日を受けて葉を開き、日が暮れると葉を閉じる)。遠くの空で稲妻が轟いている。梅雨の訪れを報じる気象予報士は、うっとおし気な表情を見せているが、私はこの季節が嫌いではない。夾竹桃の青葉が艶やかに雨滴を湛える風情も美しい。梅雨は早苗月であり稲苗月である。夏空に抱かれた稲穂の輝く季節を間近に思い、待ち侘びる感情があって、その感情がこの季節の風情を愛でるのだ。実に未来志向である。

 そんなことを考えながら窓の外の雨を見ていると、いつもお世話になっている新潟の稲作農家の田中さんが収穫をしている稲熟月の景色が頭をよぎった。大きな地震があったが無事であろうか。田中さんも心配だが米も心配だ。あの米が届かなくなることを思うと途端に梅雨が恨めしくなる。誠に勝手なものである。勝手ついでに田中さんに電話をかけると、無事だよと明るい声だ。本当は米の無事も訊きたかったが、まあ、田中さんが無事ならば米もきっと無事だろう。誠にいい加減なものである。

 

日本は四季があるから、季節感を表現する言葉が多彩だ。米の収穫が始まる長月は、稲熟月で、稲刈月で、穂長月だ。名残月や夜長月ともいう。そんなことを思いながらコーヒーを淹れていると、スマートフォンから蛙の鳴く声がした。開くと田中君からの散歩の誘いだった。新潟の田中さんではない。近所の田中君だ。私は迷わず、傘も持たず、玄関ドアを開けていた。

田中君の家の前に着くと、玄関先で待つ田中君が、豆鉄砲で撃たれた鳩のような顔をしている。「おはよう今日は良い天気だね」と声をかけると、「まさか傘もささずに来るとは……」と絶句した。とまれ二人は、すっかり恒例行事となった週末の散歩に出かけた。ビニールの帽子と雨合羽を打つ雨音が楽しい。楽しいついでに長靴の底で水たまりに飛び込んでみると、その音がまた楽しい。

ふと気が付くと、楽しそうなのは私だけで、隣を歩く田中君が妙に静かだ。見れば浮かない顔をしている。つまり沈んでいる。

「どうしたの田中君、黴雨(ばいう)のような顔をして」我ながら酷いたとえである。しかし頭に思い浮かべている字面までは分かるまい。

「え、ああ、この前会社の研修を受けたんだけど、講師の人がね、僕にはコンセプチャルスキルがないって言うんだよ。足りないじゃないよ、ないだよ」

「へえ、こんせぷちゃる?」

「うん、ものごとを概念化するスキルなんだけどね。君は駄目だねえって……」

「そうなんだ。で、どんなことを習ったの?」

「知ってる?3CとかPESTとか、そんなやつ。それってフレームワークなんだけどね。フレームワークを習っても中身が出てこないんだよね」田中君は雨空を見上げて溜息をついた。

「そういえば、田中君の語彙は極端に偏っているからね。来る日も来る日も同じような作業ばかりしてるんじゃない。たまには自分の脳と遊んであげなきゃね」そう言って、私がからからと笑っていると、目の端に恨めしげな田中君の表情が映ったので、意思の力で真顔に戻した。確か田中君の仕事はSEだ。かなりの凄腕だと自分で言っていた。

「語彙って何か関係あるの」田中君の口が尖っている。

「田中君がよく使ってる言葉って、あれ英語だよね」

「え、ああ、英語っていうか、英語だけど、IT用語っていうか、英語だと思って使ってないよ」

「英語もね、英語圏の文化が後ろにあるから、その文化圏の色んな概念を表してるんだよ。先ずは、その辺から勉強してみたら?きっと楽しいだろうなぁ」

「英語ねえ……」今ひとつ腹落ちしていない様子の田中君である。

 

 人の脳は、語感で感じたことを記憶と結びつけながら、実に沢山の感情を生成しているという。そして、それらの感情のどれかを選んでいるのだそうだ。全ては刹那の出来事だ。選ばれた感情ははっきりと認識されて、その認識が今度は行動を生成する。そのように認識を行動にする過程で、人の脳は認識を言葉にしようとするらしい。ひとつは認識を確かな意思へと昇華するために、もうひとつは認識を誰かに伝え、共に行動するために。言葉をつくる思考とは、一瞬先から遠い将来も含めた未来の自分に対する指令なのだ。

 たとえば東北には、「津波てんでんこ」という言葉が伝承されている。もし津波が襲ってきたら、取る物も取り敢えず、人のことも構わないで、自分の命を一番にそれぞれに逃げようという意味で、被災した人々の記憶と知恵が紡ぎ上げてきた言葉だと解るし、意思を伝えて人を動かす言葉の力が感じられる。ちなみに、最新の防災アプリのいくつかは、津波てんでんこを高度に実現する機能を備えていて面白い。

「そうか、こんせぷちゃるすきるか。田中君は楽しいことを勉強させてもらってるんだね。しかもただでしょ。でもそれ、何に使うの?」

「新しいシステムとかサービスの開発に必要なんだよ」

「へえ、それは楽しそうだねぇ。未来の自分たちに出す指令を考えるんだね。それだったらさぁ、色んな神様の神通力と最先端の技術を掛け合わせて見たらどうかなぁ。神様の神通力って、昔から色褪せない人間の願望じゃない。わぁ、わくわくするね」

 田中君は口を尖らせたまま、狐につままれたような顔をしていた。

「ごめんごめん、一人でわくわくしちゃって。あ、そうだ。この前ほら、教えてくれたよね、ITの、壁に耳あり障子に目ありって感じのやつ。えっと、そうそうIoT

IoTがどうしたの?」

「ほら、IoKknowledge)だと文殊菩薩だし、IoMMedical)だと薬師如来だし、IoFFamily)だと鬼子母神かな、あれ、阿修羅はなんだろう……」

「それって神様じゃなくって仏様だよ」

「ああそうか。そうだったね。田中君は見かけによらず細かいことを気にするね」

 田中君の尖っていた口が、今度はへの字に曲がってしまった。

 

 二人で小一時間も歩いていると古びた小さな公園があったので、ベンチで少し休むことにした。いつのまにか雲は途切れてい、公園の木々に薄日が差している。

「晴れたねぇ」と、田中君が嬉しそうに呟いた。「そうだねぇ。今朝は遠くで雷が鳴ってたんだけど、遠くに行っちゃったのかなぁ」と、私はつまらなそうに呟き返した。そういえば稲妻は、稲光とか、稲魂とか、稲交接とも言って、みな稲の字がついている。雷が多いと稲が豊かに実るというフィクションが生成した言葉だろう。後に続く妻の字も、由来を思い浮かべると奥深い。妻とは通い婚の時代に男と女が逢瀬を交わす場所を言う。古代の人々は稲妻という言葉に、豊作に備えようというメッセージを込めていたのかもしれない。

「あっ稲妻だ、稲妻が走ったよ」「おっ今年はきっと豊作だ」「わくわくするなぁ」「おーいみんな、支度を怠るなよ」……

そんな妄想をとつおいつしていると、おやっと言って田中君が空を見上げるので、私もつられて空を見上げた。薄日の中でさらさらと糸雨がきらめいている。狐の嫁入りである。狐が嫁に行くと子狐が増えて鼠をとってくれるので、稲が豊かに実るという。虹のおまけまでついて、今日もまた、実に楽しい散歩であった。

方丈の庵

2019年6月11日 (火)

従来型マネジメント手法で「ゆとり世代」の力を引き出すことができるのだろうか?

 2018年春にゆとり世代といわれた新卒者が社会にデビューしてきました。ゆとり世代は、俗に言う「ゆとり教育」の最も「ゆとり」があったとされる時期に教育されてきた層で、これから8年間継続して社会にでてくることになります。

 ゆとり教育とは、知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型を基本として、学習時間とカリキュラムの内容を減らし、ゆとりある学校を目指して鳴り物入りで導入されました。しかし、時間的な拘束の緩さや学問の理解に無理のあるような極端すぎる緩和によって、学力の低下懸念だけがクローズアップされ、批判の的になりました。その後批判に耐えられなくなった文科省が見直しを決め「脱ゆとり」を図ってしまったため、実際の効果は検証できぬままとなってしまいました。

※ゆとり世代がいつからいつまでなのかには諸説があります。段階的に詰め込み教育の緩和が行われてきためですが、一般的にはカリキュラムの緩和が一気に進んだ、2002年度から2010年度にゆとり教育を受けた1996~2003年生まれの世代を指すことが多いようです。

 

 「ゆとり教育」の本来の狙いは、「生徒自身で考える力を養うこと」にありました。それ以前の詰め込み教育では、大学入試の突破を目標に、暗記メインで「とにかく知識を増やすための指導」を行ってきました。それにより試験の点数の平均は上昇しましたが、暗記したことをすぐに忘れてしまったり、詰め込み過ぎで授業についていけない子どもが増加したりなど、様々な問題がありました。「受験戦争」等の言葉も生まれ、少しでも偏差値のよい大学に入学することが正義だと言われた時代でもありました。

 この反動として、「生徒が自分で考え、学習内容を正しく理解して覚えられる」ように、詰め込まれていたカリキュラムを精査し、授業に余裕(ゆとり)を持たせるような教育が求められ、「脱詰め込み」を目指して学習指導要領の改訂が行われました。授業時間の削減、休みの増加が図られ、ゆとりある学校生活に変わり、2002年度では、生徒が自発的に学習を行う「総合的な学習の時間」が導入されるなど、より思考力を養うための学習内容に改訂されました。

 その結果、実際に、子どもが自ら考える力が向上し、それぞれの個性を伸ばすことができたなどの声が一部の識者から挙がりました。しかし、ゆとり教育導入後に「国際学力テスト」の日本の順位が下がったなどとして、「ゆとりを持たせたことで学力が低下した」との批判の声も少なくありませんでした。その結果、2000年代後半にゆとり教育での授業内容や授業料を改めた「脱ゆとり教育」が掲げられるようになります。そして脱ゆとりをテーマとした新たな指導要領が、2011年度(小学生)から実施され、現在に至っています。

 

 ゆとり教育を受けた世代(俗に言う)「ゆとり世代」の弊害としては、「仕事よりもプライベートを重視する」、「対人コミュニケーションが不得意」、「指示がないと自分から動かない」、「挫折から立ち直れない」、「物欲がなく、物への執着が薄い」、「恋愛や結婚への興味が薄い」などが挙げられていますが、確たる評価が固まっているとはいえません。特に、「ゆとり世代」がビジネスの世界に本格的入ってくるのはこれからなので、本質的な検証が始まったばかりといっていいでしょう。

 ゆとり教育の本来の目的が達成されていたとすれば、「考える力」が向上した人材が育まれているはずであり(それ以前の詰め込み型で教わった世代は、考えるよりも憶えることに長けた人材であり、考える力の不足、応用が効かないなどが指摘されている)、そういう意味では、「ゆとり世代」こそが、これからの時代に必要な能力を持っている可能性を秘めています。

 

 さて、これから続々と「ゆとり世代」を迎えることになりますが、受け入れる側の企業はどのように接していくべきなのでしょうか?気になるのは、現在のマネジメント層は従来型の教育方法で育成された人材集団であり、旧来型の価値観による職業観、働くことの精神論や手法によるマネジメントしか経験したことがないという点です。また、これまでのマスコミ報道などから、どうも「ゆとり世代」は問題が多いらしい・・・、という考えが定着しつつあり、無意識に「ゆとり世代」を否定する考えが定着している可能性があります。下手をすると「ゆとり世代」の持っている能力や個性をつぶしてしまうことも考えられます。

 現在はVUCAだと言われています。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとったものですが、正に安定したものが何一つないような時代のことを指しています。このような時代においては、予めやるべきことを決めてそれを遂行することが求められるような従来型アナログ的マネジメント(いわゆる個々の価値を平均化した総和による組織価値向上)では通用しません。高度な柔軟性と迅速性を持った個人によるパンデミック的な価値向上が、組織全体をグイグイ吸引していくような圧倒的な組織価値向上につながっていくような、その場の状況に合わせて“考える”コミュニケーションを誘発させるようなデジタル的マネジメントが必要です。

 

 今のビジネスの世界は、これまでにない大きな環境変化に直面しています。働き方改革や、ビジネスそのものの急速なデジタル化によって、労働環境だけでなく労働に対する考え方まで大きく変わりはじめました。そして追い打ちをかけるように、全く新しい教育価値の中で育ってきた「ゆとり世代」の登場で、さらに揺れることでしょう。これまでは、企業への帰属時間(労働時間)の対価として報酬を得るという考え方でしたが、あらかじめ合意した期待される価値の提供や発揮によって報酬を得るという考えが導入されつつあります。この流れは一過性のものではなくグローバルではスタンダードになりつつあります。

 

 時代は、現在の管理職に対してマネジメントへの意識と手法を大きく変えることを求めており、実は、従来型の詰め込み教育を受けてきた世代にこそ大きな変化を求めているのかもしれません。

ものの本によれば、今後10年の間に、ITによって1人のマネージャーが世界中に散っている100人以上の部下の能力を引き出すマネジメントを行うようになる、そのようなマネジメントスキルと持った人材だけがマネージャーと呼ばれ、高給で処遇されるようになる、とありました。人間は誰でもこれまで慣れ親しんだものを捨て去るのは得意ではありません。しかし、働き方改革後の新しい就業パターンに対応するマネジメントや「ゆとり世代」に代表される新しい価値観を持っているであろう人材群に対しては、これまでのリアルさに頼るマネジメントから脱却する必要があります。いつも顔を合わせなければマネジメントはできないということであれば、到底100人以上のマネジメントはできないでしょう。

 ゆとり世代の登場は良い機会です。本当のダイバーシティをめざし、様々な個性をもった人材から最大の能力を引き出す本当の意味でのマネジメントスキルをもったマネージャーが求められるタイミングなのでしょう。

 

マンデー