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2019年2月19日 (火)

遊ぶ脳

 東向きのリビングは朝の陽ざしが眩しい。天気予報は気温4度と伝えているが、リビングの中は暖かい。窓辺の棕櫚竹や羊歯やサンスベリア達も、日差しを弾いてころころと喜んでいる。最初は三鉢しかなかったのに、いつの間に増えたのだろうか。数えてみたら窓辺だけで十三鉢もあった。

おせち料理にも、晴れやかなテレビ番組にも、長い休暇にもすっかり倦んだ。家族は朝から出かけてしまったし、ジムに行くのもなんとなく気が向かない。コーヒーを淹れながら新聞を読んでいると、スマートフォンから鳥の囀る声がした。開くと田中君からの散歩の誘いだった。何を思ったのか、私は10分後に“反逆者”の名を冠した愛車のエンジンをかけていた。

田中君の家の前に着くと、玄関先で待つ田中君が、豆鉄砲で撃たれた鳩のような顔をしている。窓を開けると、「まさか、ジープで来るとは……」と絶句した。5分後には、また何を思ったのか、私は高速道路の料金所をくぐっていた。

「今朝の時事討論見た? あれじゃあハラリさんの云う認知革命以前の時代だね」田中君が言う。

「ん? 政治家の話に、分かち合うようなフィクションもないってこと?」私が聞き返す。

「分かち合うべきフィクションがないどころか、自己完結しちゃってるだけのファンタジーだよ。あれならAIの方がましじゃないかなあ。この政策は目的達成確立12%ですとか、国民の8%から支持を得られるでしょうとか、そういってくれた方がずっとましだよ。そしたら、ああ僕は8%のマイノリティーかって納得して、無駄に怒ったり、余計な希望を持たなくてすむんだし、もっと創造的な時間の遣い方ができるってもんだよ。」いつもは大人しい田中君だが、今日は少し怒っている。

AIなら失言もないんだろうね」と返事をしたら、昨夜の自分の失言を思い出して溜息が出た。

 とまれ私の握るハンドルは、ほぼ無意識の内に伊豆半島の方角に切られていった。これがAIの自動運転なら、田中君にとっても、こんな迷惑な事態にはならなかったのだろうなと思って、少し笑った。いやいや、そもそも田中君を車でさらったりしなかっただろうと、少し反省した。少しだけだが。

 

 人間は、実に器用な生き物である。針の穴に糸を通したり、あまつさえ縫物をする生き物などは、地球上には人間以外にいない。バレエダンスのような身体操作を自在にやってのける生き物も人間だけだ。それらはみな、大容量を得た脳の成せる業である。しかし、一日中、年がら年中、手足を器用に動かし続ける人間などお目にかかったことがない。大半は休んでいるのである。ではお休み中の脳はいったい何をして過ごしているのだろうか。おそらく遊んでいるに違いない。眠っている時に見る夢なども遊んでいるとしか云いようがない。人間の複雑な精神活動は、脳が自らの容量を持て余し、遊んでいたことで獲得されたものだと思う。

 その精神活動だが、とりわけ感情の生成が面白い。鉱物はどんな情報をインプットしても、何もアウトプットしない。話しかけても無駄である。植物は光と水と二酸化炭素をインプットすると、律義に養分を生成し酸素を排出する。話しかけたら酸素をくれるに違いない。知能が発達している哺乳類は、知覚したインプットに対してストレートに経験学習した一つの行動をアウトプットする。我が家の犬も実に従順なものである。

ところが人間の脳は、五感が一つのインプットを知覚すると瞬時に沢山の感情を生成するらしい。例えば、ドアを開けた時に床に人が横たわっているのを見たとする。しかも、近くには赤い液体がこぼれているとする。そんな光景をインプットされた脳は、危険なのか危険ではないのか認識できない段階では、恐怖という感情をつくるのと同時に好奇心という感情もつくっている。驚きとか、不安とか、嫌悪とか、そんな様々な感情が行き来する。で、そのどれかを選択すると、選択された感情が行為を引き出す。例えば、好奇心に駆られてつついてみるとか。そして、ただの酔っ払いが、トマトジュースをこぼして泥酔していた、などという落ちになる。

人間の脳は、それぞれの感情がもたらす結果を、過去の記憶と照会しながら予測し、比較して、選択する。そして、選択した感情に導かれて行動する。そのようにできているそうだ。

従って、人間の行動には必ず意味がある。どのような記憶を演算して、どの感情を選んだのか、という意味である。やっかいなことに大概は無意識の選択だ。しかも人間は、同時に複数の感情を生成するがゆえに、悩み、迷う。選択しなかった感情まで記憶されているそうで、奇特なことに、選ばれなかった感情までも、いちいちその後の選択に参加する。これら一連の精神活動を心というのだそうだ。

だとすれば、私の心はいったい何をしでかしたのだろうか。どうして田中君をさらってドライブなどしているのだろうか。このほぼ無意識の選択はいかなる感情の仕業なのか。きっと脳が何かを知覚して私の心が遊びだしたのだ。犯人は新聞か、窓辺の植物たちか、はたまたコーヒーの香りか。スマートフォンの広告だったらと思うと、少し嫌な気分になる。

以前、感情の数はどれだけあるだろうかと唐突に思いついたことがある。脳が遊ぶままにざっと数えてみたのだが、24個で諦めた。少し調べてみたことがあるが、感情は、母性本能と生存本能と知性との3つの幹から発生するという。そこから千々に枝分かれして増えていく。しかも、感情と感情をシェイクすると、全く別の感情のカクテルができるらしい。例えば、勇気という感情だが、それを生成するためには、恐怖と愛情と希望の3つをシェイクすることが必要になるのだそうだ。なるほど恐怖と縁遠い環境に棲むサラリーマンに、勇気を出してチャレンジを、と言っても難しいわけだ。

一方で人間は、自分が選んだ行動の意味をはっきりと自覚することもあるらしい。すると、その感情は意思になるのだとか。意思を伴って記憶された感情は、よく似た意思決定を繰り返すらしい。無意識の選択だけではないのだとほっとする。さては人間の脳には、感情生成システムと意思決定システムとの2つのOSがインストールされているのか、と思い当たる。無論、それだけではないだろうが、この推論には自分で納得した。自分で納得しているだけなので、もっとちゃんと調べてみなければならない。

そういえば、去年売れたと云われている商品は、どんな感情を引き出すことに成功したのだろう。隣で退屈そうにしている田中君に検索をしてもらうと、安室奈美恵、ドライブレコーダー、ペットボトルコーヒー、ZOZO、グーグルホームにアマゾンエコー、君たちはどう生きるか、aibo……。なるほど、失われる喜びへの焦燥感、回避したい不安、時代遅れになることへの恐怖など、次々と解りやすい感情の名前が出てくる。しかも上手にそれを煽っている。まだランキングを読み上げている田中君をおいてけぼりにして、売れなかったなあ、と思い出される商品を振り返ってみると、確かに何かの感情が湧いてくる気がしない。そうか、よい商品をつくると云うことは、感情生成のメカニズムをデザインすることなのだと自分の思いつきに満足する。更に、意思をもって選ばれるようになるとブランドになるのかと思いついてほくそ笑む。ふと我に返ると、隣の田中君が眉根を寄せて訝しんでいた。この思いつきについて田中君と議論してみようかと思ったが、面倒臭くなりそうなので、やめることにした。

 

コンピューターは、インプットされた情報からまっすぐに1つの答えを導き出す。植物のようなもので裏切らない。AIも同じで、人の感情は理解するが、迷うことも悩むこともなく1つの答えを導き出す。つまり、今のAIはまだまだアトムにはなれないし、それで良いのだろう。いちいち一緒に悩まれてはたまったものではないし、私のように毎度突拍子もないことを思いつかれても困ってしまう。しかし、どんなインプットをすれば、どんな感情が生まれるのかは、理解してくれるかもしれない。だとすれば、田中君よりましではないか。我が家にも是非一人、AIを買いたいものだと、私に、私の感情が命令した。

 

 そんな思いをとつおいつ、気が付けば、車は西伊豆の戸田の港町に到着していた。赤松の巨樹が林立する丸い入り江が美しい。運転していた自分の意識を思い出そうとしてみるが、とぎれとぎれで思い出せない。半ば眠ったような状態で運転しをていたのだろうか。実に危ないことである。

海辺の町は静かだった。戸田の港町は眠っているようだ。

方丈の庵

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