2019年6月24日 (月)

遊ぶ脳(その二)

 晴れた日は朝の陽ざしが眩しい東向きのリビングだが、今朝は蕭々と降る雨音に包まれていて、窓辺のねむの木も心なしか葉の開きが遅いようだ(ねむの木は朝日を受けて葉を開き、日が暮れると葉を閉じる)。遠くの空で稲妻が轟いている。梅雨の訪れを報じる気象予報士は、うっとおし気な表情を見せているが、私はこの季節が嫌いではない。夾竹桃の青葉が艶やかに雨滴を湛える風情も美しい。梅雨は早苗月であり稲苗月である。夏空に抱かれた稲穂の輝く季節を間近に思い、待ち侘びる感情があって、その感情がこの季節の風情を愛でるのだ。実に未来志向である。

 そんなことを考えながら窓の外の雨を見ていると、いつもお世話になっている新潟の稲作農家の田中さんが収穫をしている稲熟月の景色が頭をよぎった。大きな地震があったが無事であろうか。田中さんも心配だが米も心配だ。あの米が届かなくなることを思うと途端に梅雨が恨めしくなる。誠に勝手なものである。勝手ついでに田中さんに電話をかけると、無事だよと明るい声だ。本当は米の無事も訊きたかったが、まあ、田中さんが無事ならば米もきっと無事だろう。誠にいい加減なものである。

 

日本は四季があるから、季節感を表現する言葉が多彩だ。米の収穫が始まる長月は、稲熟月で、稲刈月で、穂長月だ。名残月や夜長月ともいう。そんなことを思いながらコーヒーを淹れていると、スマートフォンから蛙の鳴く声がした。開くと田中君からの散歩の誘いだった。新潟の田中さんではない。近所の田中君だ。私は迷わず、傘も持たず、玄関ドアを開けていた。

田中君の家の前に着くと、玄関先で待つ田中君が、豆鉄砲で撃たれた鳩のような顔をしている。「おはよう今日は良い天気だね」と声をかけると、「まさか傘もささずに来るとは……」と絶句した。とまれ二人は、すっかり恒例行事となった週末の散歩に出かけた。ビニールの帽子と雨合羽を打つ雨音が楽しい。楽しいついでに長靴の底で水たまりに飛び込んでみると、その音がまた楽しい。

ふと気が付くと、楽しそうなのは私だけで、隣を歩く田中君が妙に静かだ。見れば浮かない顔をしている。つまり沈んでいる。

「どうしたの田中君、黴雨(ばいう)のような顔をして」我ながら酷いたとえである。しかし頭に思い浮かべている字面までは分かるまい。

「え、ああ、この前会社の研修を受けたんだけど、講師の人がね、僕にはコンセプチャルスキルがないって言うんだよ。足りないじゃないよ、ないだよ」

「へえ、こんせぷちゃる?」

「うん、ものごとを概念化するスキルなんだけどね。君は駄目だねえって……」

「そうなんだ。で、どんなことを習ったの?」

「知ってる?3CとかPESTとか、そんなやつ。それってフレームワークなんだけどね。フレームワークを習っても中身が出てこないんだよね」田中君は雨空を見上げて溜息をついた。

「そういえば、田中君の語彙は極端に偏っているからね。来る日も来る日も同じような作業ばかりしてるんじゃない。たまには自分の脳と遊んであげなきゃね」そう言って、私がからからと笑っていると、目の端に恨めしげな田中君の表情が映ったので、意思の力で真顔に戻した。確か田中君の仕事はSEだ。かなりの凄腕だと自分で言っていた。

「語彙って何か関係あるの」田中君の口が尖っている。

「田中君がよく使ってる言葉って、あれ英語だよね」

「え、ああ、英語っていうか、英語だけど、IT用語っていうか、英語だと思って使ってないよ」

「英語もね、英語圏の文化が後ろにあるから、その文化圏の色んな概念を表してるんだよ。先ずは、その辺から勉強してみたら?きっと楽しいだろうなぁ」

「英語ねえ……」今ひとつ腹落ちしていない様子の田中君である。

 

 人の脳は、語感で感じたことを記憶と結びつけながら、実に沢山の感情を生成しているという。そして、それらの感情のどれかを選んでいるのだそうだ。全ては刹那の出来事だ。選ばれた感情ははっきりと認識されて、その認識が今度は行動を生成する。そのように認識を行動にする過程で、人の脳は認識を言葉にしようとするらしい。ひとつは認識を確かな意思へと昇華するために、もうひとつは認識を誰かに伝え、共に行動するために。言葉をつくる思考とは、一瞬先から遠い将来も含めた未来の自分に対する指令なのだ。

 たとえば東北には、「津波てんでんこ」という言葉が伝承されている。もし津波が襲ってきたら、取る物も取り敢えず、人のことも構わないで、自分の命を一番にそれぞれに逃げようという意味で、被災した人々の記憶と知恵が紡ぎ上げてきた言葉だと解るし、意思を伝えて人を動かす言葉の力が感じられる。ちなみに、最新の防災アプリのいくつかは、津波てんでんこを高度に実現する機能を備えていて面白い。

「そうか、こんせぷちゃるすきるか。田中君は楽しいことを勉強させてもらってるんだね。しかもただでしょ。でもそれ、何に使うの?」

「新しいシステムとかサービスの開発に必要なんだよ」

「へえ、それは楽しそうだねぇ。未来の自分たちに出す指令を考えるんだね。それだったらさぁ、色んな神様の神通力と最先端の技術を掛け合わせて見たらどうかなぁ。神様の神通力って、昔から色褪せない人間の願望じゃない。わぁ、わくわくするね」

 田中君は口を尖らせたまま、狐につままれたような顔をしていた。

「ごめんごめん、一人でわくわくしちゃって。あ、そうだ。この前ほら、教えてくれたよね、ITの、壁に耳あり障子に目ありって感じのやつ。えっと、そうそうIoT

IoTがどうしたの?」

「ほら、IoKknowledge)だと文殊菩薩だし、IoMMedical)だと薬師如来だし、IoFFamily)だと鬼子母神かな、あれ、阿修羅はなんだろう……」

「それって神様じゃなくって仏様だよ」

「ああそうか。そうだったね。田中君は見かけによらず細かいことを気にするね」

 田中君の尖っていた口が、今度はへの字に曲がってしまった。

 

 二人で小一時間も歩いていると古びた小さな公園があったので、ベンチで少し休むことにした。いつのまにか雲は途切れてい、公園の木々に薄日が差している。

「晴れたねぇ」と、田中君が嬉しそうに呟いた。「そうだねぇ。今朝は遠くで雷が鳴ってたんだけど、遠くに行っちゃったのかなぁ」と、私はつまらなそうに呟き返した。そういえば稲妻は、稲光とか、稲魂とか、稲交接とも言って、みな稲の字がついている。雷が多いと稲が豊かに実るというフィクションが生成した言葉だろう。後に続く妻の字も、由来を思い浮かべると奥深い。妻とは通い婚の時代に男と女が逢瀬を交わす場所を言う。古代の人々は稲妻という言葉に、豊作に備えようというメッセージを込めていたのかもしれない。

「あっ稲妻だ、稲妻が走ったよ」「おっ今年はきっと豊作だ」「わくわくするなぁ」「おーいみんな、支度を怠るなよ」……

そんな妄想をとつおいつしていると、おやっと言って田中君が空を見上げるので、私もつられて空を見上げた。薄日の中でさらさらと糸雨がきらめいている。狐の嫁入りである。狐が嫁に行くと子狐が増えて鼠をとってくれるので、稲が豊かに実るという。虹のおまけまでついて、今日もまた、実に楽しい散歩であった。

方丈の庵

2019年6月11日 (火)

従来型マネジメント手法で「ゆとり世代」の力を引き出すことができるのだろうか?

 2018年春にゆとり世代といわれた新卒者が社会にデビューしてきました。ゆとり世代は、俗に言う「ゆとり教育」の最も「ゆとり」があったとされる時期に教育されてきた層で、これから8年間継続して社会にでてくることになります。

 ゆとり教育とは、知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型を基本として、学習時間とカリキュラムの内容を減らし、ゆとりある学校を目指して鳴り物入りで導入されました。しかし、時間的な拘束の緩さや学問の理解に無理のあるような極端すぎる緩和によって、学力の低下懸念だけがクローズアップされ、批判の的になりました。その後批判に耐えられなくなった文科省が見直しを決め「脱ゆとり」を図ってしまったため、実際の効果は検証できぬままとなってしまいました。

※ゆとり世代がいつからいつまでなのかには諸説があります。段階的に詰め込み教育の緩和が行われてきためですが、一般的にはカリキュラムの緩和が一気に進んだ、2002年度から2010年度にゆとり教育を受けた1996~2003年生まれの世代を指すことが多いようです。

 

 「ゆとり教育」の本来の狙いは、「生徒自身で考える力を養うこと」にありました。それ以前の詰め込み教育では、大学入試の突破を目標に、暗記メインで「とにかく知識を増やすための指導」を行ってきました。それにより試験の点数の平均は上昇しましたが、暗記したことをすぐに忘れてしまったり、詰め込み過ぎで授業についていけない子どもが増加したりなど、様々な問題がありました。「受験戦争」等の言葉も生まれ、少しでも偏差値のよい大学に入学することが正義だと言われた時代でもありました。

 この反動として、「生徒が自分で考え、学習内容を正しく理解して覚えられる」ように、詰め込まれていたカリキュラムを精査し、授業に余裕(ゆとり)を持たせるような教育が求められ、「脱詰め込み」を目指して学習指導要領の改訂が行われました。授業時間の削減、休みの増加が図られ、ゆとりある学校生活に変わり、2002年度では、生徒が自発的に学習を行う「総合的な学習の時間」が導入されるなど、より思考力を養うための学習内容に改訂されました。

 その結果、実際に、子どもが自ら考える力が向上し、それぞれの個性を伸ばすことができたなどの声が一部の識者から挙がりました。しかし、ゆとり教育導入後に「国際学力テスト」の日本の順位が下がったなどとして、「ゆとりを持たせたことで学力が低下した」との批判の声も少なくありませんでした。その結果、2000年代後半にゆとり教育での授業内容や授業料を改めた「脱ゆとり教育」が掲げられるようになります。そして脱ゆとりをテーマとした新たな指導要領が、2011年度(小学生)から実施され、現在に至っています。

 

 ゆとり教育を受けた世代(俗に言う)「ゆとり世代」の弊害としては、「仕事よりもプライベートを重視する」、「対人コミュニケーションが不得意」、「指示がないと自分から動かない」、「挫折から立ち直れない」、「物欲がなく、物への執着が薄い」、「恋愛や結婚への興味が薄い」などが挙げられていますが、確たる評価が固まっているとはいえません。特に、「ゆとり世代」がビジネスの世界に本格的入ってくるのはこれからなので、本質的な検証が始まったばかりといっていいでしょう。

 ゆとり教育の本来の目的が達成されていたとすれば、「考える力」が向上した人材が育まれているはずであり(それ以前の詰め込み型で教わった世代は、考えるよりも憶えることに長けた人材であり、考える力の不足、応用が効かないなどが指摘されている)、そういう意味では、「ゆとり世代」こそが、これからの時代に必要な能力を持っている可能性を秘めています。

 

 さて、これから続々と「ゆとり世代」を迎えることになりますが、受け入れる側の企業はどのように接していくべきなのでしょうか?気になるのは、現在のマネジメント層は従来型の教育方法で育成された人材集団であり、旧来型の価値観による職業観、働くことの精神論や手法によるマネジメントしか経験したことがないという点です。また、これまでのマスコミ報道などから、どうも「ゆとり世代」は問題が多いらしい・・・、という考えが定着しつつあり、無意識に「ゆとり世代」を否定する考えが定着している可能性があります。下手をすると「ゆとり世代」の持っている能力や個性をつぶしてしまうことも考えられます。

 現在はVUCAだと言われています。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとったものですが、正に安定したものが何一つないような時代のことを指しています。このような時代においては、予めやるべきことを決めてそれを遂行することが求められるような従来型アナログ的マネジメント(いわゆる個々の価値を平均化した総和による組織価値向上)では通用しません。高度な柔軟性と迅速性を持った個人によるパンデミック的な価値向上が、組織全体をグイグイ吸引していくような圧倒的な組織価値向上につながっていくような、その場の状況に合わせて“考える”コミュニケーションを誘発させるようなデジタル的マネジメントが必要です。

 

 今のビジネスの世界は、これまでにない大きな環境変化に直面しています。働き方改革や、ビジネスそのものの急速なデジタル化によって、労働環境だけでなく労働に対する考え方まで大きく変わりはじめました。そして追い打ちをかけるように、全く新しい教育価値の中で育ってきた「ゆとり世代」の登場で、さらに揺れることでしょう。これまでは、企業への帰属時間(労働時間)の対価として報酬を得るという考え方でしたが、あらかじめ合意した期待される価値の提供や発揮によって報酬を得るという考えが導入されつつあります。この流れは一過性のものではなくグローバルではスタンダードになりつつあります。

 

 時代は、現在の管理職に対してマネジメントへの意識と手法を大きく変えることを求めており、実は、従来型の詰め込み教育を受けてきた世代にこそ大きな変化を求めているのかもしれません。

ものの本によれば、今後10年の間に、ITによって1人のマネージャーが世界中に散っている100人以上の部下の能力を引き出すマネジメントを行うようになる、そのようなマネジメントスキルと持った人材だけがマネージャーと呼ばれ、高給で処遇されるようになる、とありました。人間は誰でもこれまで慣れ親しんだものを捨て去るのは得意ではありません。しかし、働き方改革後の新しい就業パターンに対応するマネジメントや「ゆとり世代」に代表される新しい価値観を持っているであろう人材群に対しては、これまでのリアルさに頼るマネジメントから脱却する必要があります。いつも顔を合わせなければマネジメントはできないということであれば、到底100人以上のマネジメントはできないでしょう。

 ゆとり世代の登場は良い機会です。本当のダイバーシティをめざし、様々な個性をもった人材から最大の能力を引き出す本当の意味でのマネジメントスキルをもったマネージャーが求められるタイミングなのでしょう。

 

マンデー

2019年5月28日 (火)

養鶏業におけるIoT化技術によって、中小養鶏事業者は生き残れるか?

『物価の優等生』と聞いて、皆さんは何を思い出すだろうか。タイトルから察しがつく方もいると思うが、一般的には、タマゴ、モヤシ、牛乳あたりがよく『物価の優等生』と言われている。インターネットで『物価の優等生』と検索するとまず挙がってくるタマゴは、実は30年以上小売価格がほぼ変わっていない。また、タマゴは『物価の優等生』という面だけではなく、『ほぼ完全栄養食』と言われるほど栄養価が高い。事実、タマゴは、健康を維持するために必要な栄養素の内、ビタミンCと食物繊維以外の栄養素が含まれている。それに加え、料理使われるレパートリーの多さから、タマゴは日本の食生活に深く根付いており、日本人にとって欠かせない食材の一つと言えるのではないだろうか。
 
さて、昨今、あらゆる分野で急速にIoTを活用したサービスが出現している。農業や畜産業に着目してみると、IoTサービス活用の最大の特徴は、一般的に大きく2点あげられており、一つ目はリアルタイムに生産に関わる情報を収集しモニタリングが出来ること、二つ目は遠隔地から生産現場の情報を確認・操作をすることが出来ることがある。それにより、農家での深刻な人材不足の改善、生産効率化などの効果が期待できる。
タマゴを生産する養鶏業でも例外ではなく、大手商社系飼料メーカーが主導し、養鶏IoTサービスによって、鶏舎内情報のモニタリング、鶏舎の管理・操作が出来るようになっている。1
私は、こうした養鶏業におけるIoTサービスの普及や技術革新を、中小規模の養鶏業者は脅威と捉え、独自の差別化要素を早期に見出し、国内外問わずニッチな市場を自ら積極的に創出していく以外に、生き残る道はないと考えている。
 
なぜなら、①国内人口減少により国内需要が縮小していく一方で、国内生産率は99%(国内生産量÷国内需要)にまで到達していることから、このまま維持され続ければ鶏卵相場は低水準で推移し続け、中小規模の生産者の経営状態は今以上に悪化する。②規模の経済性が働く大規模生産者はIoTサービスの導入によって、更に生産コスト低減、生産効率化が図られ、コスト競争力が増す。➂コスト競争力が増した大規模生産者は販売力が強まるため、中小規模の生産者は販路を奪われるからである。
 
 理由を紐解く前に、タマゴの価格はどのように決められているのかを補足しておく。大きくは2つに分かれる。1つは相場を付ける機関(農協系企業)に、毎朝入荷されたタマゴの量とその日のタマゴの販売予定量に応じてサイズ別に相場が付けられ、その鶏卵相場を基準とした価格決定が行われている。※2.要するに需要と供給のバランスによって日々相場が変化する。
もう1つは、生産者が個別にタマゴへの拘りや安全・安心などの差別化を図り、キログラム当りまたは1パック当りなど、取引形態によって単価が決められている。
また、国内のタマゴの流通は、約半分がパック卵として一般家庭に流通し、残りの半分は業務用として外食産業向けや加工用として製造業などへ流通している。※3. 家庭向けも業務用も指標とする相場は異なるものの、価格の決め方に大きな違いはない。
 
それでは、前述した理由を紐解いていきたい。
まず①国内の鶏卵市場について、需要面を考えてみると、日本の人口は2018年1億2,623万人、2019年1月現在の1億2,650万人から、2020年は1億2,533万人、2030年1億1,662万人、2060年8,674万人と減少すると予測されている。※4. 一方で、日本人は1年間で一人当たり約21kgのタマゴを消費しており、2018年までの8年間でほぼ変わっていない。5 よって、日本国内での需要は食習慣の大きな変化によってタマゴの消費量が増えない限り、国内需要は人口減少とともに減っていくことが予測される
次に、供給面を考えてみると、日本全国の鶏卵生産者年平均5%で減少している一方で、1戸当りの生産羽数は年平均6%増加し、実際の生産量は、年平均1%増加している。国内需要に対する、国内での生産量の比率は、2013年は約94%から2018年は約99%まで上昇し、実際の鶏卵相場は過去5年間で最も低水準で推移している。安定的な経営が出来る相場水準まで上昇させるために、生産量を抑制する要請が専門誌で全国の生産者に向けてされている1ことからも、このままの生産量の水準では相場は低水準で推移し続け、生産者の経営状態は悪化する一方なのである。
 
次に➁養鶏業界におけるIoTサービスへの投資は、資金力のある大規模生産者の方が普及が早くサービス導入費の割合は大規模生産者の方が規模の経済性によって相対的に低い。また、IoTサービスによるノウハウの蓄積が早ければ早いほどコスト面での先行者優位に繋がる。これにより、大規模生産者は、これまで以上にコスト競争力が増すこととなる。
 
➂大規模生産者は、小売・卸・加工筋などへの独自の販売先や物流網を持っており、販売を他社に任せていることが多い中小規模の生産者よりも、販売力の面でも優位性を持つ。それに加え、➁で説明したように大手生産者がこれまで以上にコスト競争力を獲得すれば、中小規模の生産者は販路を奪われることになる。
 
以上により、中小規模の生産者にとってIoTサービスの普及が進むことで大手生産者とのこれまで以上に厳しい価格競争にさらされることとなり、更に経営環境の悪化に陥るため、生き残る事は大変困難であると言える
いち消費者としてみれば、安心・安全で美味しい卵が安く購入できれば、それでいいかもしれない。しかし、昔から日本のタマゴ市場を下支えしてきた中小規模の生産者が、健全な経営が出来ず倒産・廃業に追い込まれてしまっている状況は非常に残念に思う。
 
それでは、中小規模の生産者が、今後も生き抜いて行くためにはどうしたらよいか。
それは、鶏卵相場による取引ではない、価格決定権を持った流通網を確立することである。同地域にいる他事業者(例えば、鶏肉生産者や他の畜産業、農業、食品加工業など)、大学、市町村と連携し、地域ブランドを立ち上げ、国内外問わずこれまでとは異なる独自ルートでタマゴを流通させていき、6次産業化を図って行くのである。IoTサービスに係る設備投資の資金は、農商工連携による国の支援策を活用して調達し、生産コスト低減と生産効率化だけでなく、地域ブランド独自の差別化要素を早期に見出すことにもIoTサービスを活用していく。具体的には、専用のECサイトを立ち上げ、受注データとIoTデータを連動させたオーダーシステムを構築した上で、タマゴの黄身の色や味を飲食店のオーナーや消費者の好みに応じて自ら選べるようにする。さらに鶏を個体識別管理を行い、その鶏が食べた餌や飼育環境のデータ、親鳥とタマゴの紐付けされた情報を合わせて、定期便として受注先に届ける。
また、他の連携事業者の食材とタマゴを使用した加工食品の開発によって高付加価値化を行い、地域ブランド商品ラインナップを拡充させ、地域内外へ積極的なプロモーションを実施する。コアな固定客や愛顧客を獲得するために、地域ブランド商品を直接購入できるアンテナショップを出店し地域ブランドを浸透させていくといったことも必要である。
このように、中小規模だからこそ実現できる”仕組み作り”を行い、自社だけではなく地域資源を活用した取り組みによって、既存の鶏卵相場に影響を受けないニッチな市場を創造していくことが、中小規模の生産者が生き残る道でなのある。
6次産業化の取り組みは、国の支援はあるものの、鶏卵事業者1社で進めることは資金的にも、経営者の労力としても難しいので、地域の他事業者や大学、市町村と連携して、地域ぐるみで取り組むことが必要だ。収入の増加を鶏卵相場や一般市場価格の上昇に準ずるのではなく、積極的に地域社会に働きかけ、自ら価格を決められる市場を創造し、地域経済を全体を活性化する取り組みを推進していくように変えていかなければならない。IoTサービスによる働き手の負担軽減や生産効率化といった目先の利益だけでなく、得られた情報を如何に活用し、これまで気が付いていなかった付加価値をどのように創出していくか、ということに目を向けるべきである。こうした1次産業を基点とした6次産業化の取り組みがこれまで以上に各地で起こり、地域経済が活性化していくことで日本経済全体が活性化していくことを願っている。
 
最後に、タマゴには、一般的に意外と知られていないことが多いので、いくつかクイズ形式で紹介していく。
問1.殻が白色のタマゴと茶色のタマゴではどちらの方が栄養価が高いでしょうか?
問2.タマゴの黄身の色で産ませることが出来ない色は何色でしょうか?
   A:白色 B:青色 C:黒色 D:どれも可能
問3.ゆで卵の殻が取りやすいのは、新鮮なタマゴか?消費期限間近のタマゴか?
 
<参照>
※1.鶏鳴新聞:2018.6.25【今秋から養鶏IoTサービス 伊藤忠飼料ら3社開発
        2019.3.5【需要に見合った生産体制構築 JA全農たまごが2度目の要請
※2.JA全農たまご:【ひよっ子でも分かるたまご相場】
※3.全国農業協同組合連合会:【鶏卵における流通の現状】
※4.内閣府:【将来推計人口でみる50年後の日本】
※5.農林水産省:【鶏卵の需給動向2017年】
 
<クイズの答え>
問1.殻の色の違いで栄養価は変わらない
問2.D:どれも可能
問3.消費期限間近のタマゴの方が剥きやすい
 

2019年4月30日 (火)

ゲノム編集食品が消費者に受け入れられるために必要なこと

 今年の3月18日、厚生労働省がゲノム編集で開発した一部の食品は従来の品種改良と同じであるとして、同省の安全審査を受けなくても届け出だけすれば流通を認める方針を固めた。遺伝子を効率よく改変できる「ゲノム編集」という技術を使った食品が、早ければ今夏にも市場に流通することになった。

 

 ゲノムとは、遺伝子などがもつすべての遺伝情報のことで、それをあたかもパソコンで文字や単語、文章を編集するかのように、自在に切り貼りできる技術がゲノム編集である。ゲノム編集は、難病治療として医療への応用が期待されている。体内で病気を引き起こす遺伝子変異を直接修正することにより、病気の原因を根本から絶つ時代が間近に迫っている。医療分野に加え大きな衝撃をもたらすと言われているのがゲノム編集による農作物や家畜や魚などの品種改良への影響である。これまで海外ではゲノム編集で変色しないマッシュルーム、角のない乳牛、筋肉量の多い牛、耐病性小麦等が開発されてきている。日本では京都大学等が開発している筋肉量が約1.2倍のマダイ、血圧上昇を抑える効果のGABAを多く含むトマト等と大学や企業での開発の品種は増え続けている。

 

 こうした努力の一方で、品種改良された新たな食品は日本の一般消費者に受け入れられるのだろうか。かつて1980年代に遺伝子組み替え技術が品種改良に使われ、遺伝子組み換え食品(GMO)が次々に開発されたが主に安全性への懸念からGMOは主に家畜の飼料として使われ、世界中の一般消費者の食卓に上ることはほとんどなかった。現在アメリカでは、かつてのGMOの時のような一般消費者の反対運動を恐れ、いきなりスーパーマーケットで販売する主要食品として製品化するのではなく、最初は目立たないニッチ商品(例えばトウモロコシ成分を加工したスティック糊など)として提供している。

GMOが消費者から避けられていた原因は2つあると考えている。1つは既に様々な議論がされているがGMO技術の限界による安全性への懸念が挙げられる。外来遺伝子をDNAに組み込むことは出来てもそれが組み込まれる場所に関しては指定できなかったことがある。何らかの機能を付加させるための外来遺伝子はDNAにランダムに組み込まれるためそれが他の遺伝子と予期せぬ相互作用を起こし食の安全性を脅かす可能性があると指摘されていた。もちろんそういった安全性を確保するために選別や対策は施され、科学的にGMOが危険だということは今だに立証されていないが、消費者心理にすり込まれた不信感はぬぐい去れなかった。

ゲノム編集は、編集位置の正確性、低コスト、扱いが簡単な特徴を持つゲノム編集分子ツールのおかげで狙った遺伝子をピンポイントで切断、他の遺伝子を挿入できる。このうち遺伝子を組み入れるタイプのものは規制対象になるが、切断だけする方法は自然界の突然変異とプロセスは違えど得られる結果は同じで、安全性に問題はないと多くの専門家は見ており厚生労働省も特別な安全審査を実施しないことを決めている。つまり規制対象外にして届け出は任意となり技術的には安全面でGMOほど懐疑的な見方はされないだろう。

 

 GMOが受け入れられなかった2つめの原因は、消費者から本当に必要なものだと思わせられなかったことも考えられる。消費者の利点を訴求するより、農家にとっての利点を訴求した消費者視点に欠けた研究開発の姿勢が原因だ。その結果、干ばつに強いトウモロコシや害虫への抵抗力を備えた農作物等は農家には受け入れられたが消費者からは毛嫌いされていた。何故なら農家の生産性が上がっても消費者の食生活を改善することに繋がらないためだ。生産性向上による小売価格が下落する可能性もあるが、需給環境によって必ずしも保証されるわけではないし、食の安全性の懸念を考えるとそこまでの価値がないと消費者は受け止めたのだろう。ゲノム編集食品がGMOの二の舞にならないためには何が必要なのだろうか。

例えば近年、マグロなど水産資源の乱獲を防ぐ目的から国際条約により漁獲量が規制され、その価格が高騰してきている。そこでゲノム編集を使えば「ミオスタチン」という遺伝子をピンポイントで破壊することにより、魚の肉量を大幅に増やせることが可能となる。実用化されれば養殖魚の肉量が増加するため、小売価格が下がると共に天然魚の乱獲を防ぎひいてはその再生に繋がる可能性があるなどといった説明だ。生産者のための品種改良で、食の安全性までを考慮すれば消費者の利益にならないと思わせない努力も必要になる。

またゲノム編集食品は遺伝子組み換え食品で見られた、収穫量の向上や、味を良くするための品種改良より短時間低、コストで正確に遺伝子を編集でき高度な品種改良が実現できる。例えば、植物油に加工したときに人体に有害とされるトランス脂肪酸を発生させない大豆など消費者の健康面までに配慮した改良が可能となる。食料危機や、環境問題、健康への貢献等、消費者に必要性を伝えられればGMOが踏んだ轍を回避できる。

 

 ゲノム編集食品に対しては一人一人の立場や国の違い、あるいは食習慣や宗教などの違いにより賛否両論分かれるだろうが、議論の前提として、品種改良を行う科学者や企業からの正確な情報開示が必須となる。供給者は独自の関心や目標に従って研究開発を進めてしまうのではなく、安全性を訴えるのと同時に何故それらの品種改良がこれからの社会に必要とされるのかを説明することが求められるだろう。

エウロパ

2019年4月26日 (金)

無縁化する日本

<広がる社会問題 無縁化する日本の実態を垣間見る>

国立社会保障・人口問題研究所は、2040年までの世帯数の将来推計を公表した。

2040年には世帯主75歳以上世帯が1217万世帯、全体の4分の1を占める。その中で独り暮らし世帯も500万人を超える。国として社会保障や生活インフラを変革することを迫る数字である。しかし、この数字をマクロトレンドとして捉えているだけでは、社会問題として捉える事はできない。この実態を目の当たりして最初に思い浮かんだことは、独居老人が一人で暮らす不安から、一人で死を迎える不安に変わっていくのではないかということだ。平成から令和へと元号は変わる中、この社会問題は深刻だ。

NHKの取材によると、2017年の無縁死(誰にも看取られず1人亡くなる人)の数は約3万2千人。その多くは、単身者である。更に3万2千人の無縁死のうち、身元不明者は1,000人近くあったという。身元不明の遺体については、警察、自治体が調査してもその身元が掴めない。その結果、こういった無縁死を遂げた亡骸は「行旅死亡人」と呼ばれる事を知った。私達が気づかないうちに広がっていた無縁死は、これからも広がる可能性が高い。どうしたらこれをくい止める事ができるのか。国の社会保障やインフラ整備を待っている間にも、無縁死は確実に増えていく。

「行旅死亡人」は、行政が日々官報に報じていくが、行方不明者の捜索でもしていない限り、官報を気にかける人はほぼいない。一方、無縁死によって亡くなった方の身元がわかったとしても、兄弟や親戚が遺骨を引き取ることを拒むケースが少なくない。

それを証明するかのように、特に都市部では、特殊清掃業者の仕事が増えている。特殊清掃業者は無縁死した人の屋内清掃、送骨(遺骨を合同供養してくれる寺へ送ること)等を引き受けている。特殊清掃業者への依頼主は、行政や、無縁死した家族・親戚縁者である。

無縁死の問題の本質は、無縁社会に生きている1人ひとりの生き方の問題でもある。その原因を探っていくと、家族や、会社とのつながりを無くし、孤立する人々の姿が浮き上がってくる。都会に出たまま故郷に戻れずに、無縁死するケースや、無縁死した後、兄弟などが遺骨を引き取り埋葬する余裕がなく、遺体を医大に献体するケースがあることなどがNHKの取材記録に残されていた。

その一方で、頼れる家族がいない人達があるNPOに殺到している。一人で死を迎えることに不安を抱える人達である。家族に代わり、亡くなった後のことを整理してもらうために、自分の死亡時、死亡後の埋葬等を含め、どのように対処してもらえるかに関する生前契約を行う。生活に余裕がある人であっても、不安を感じて契約する人が多くいるそうだ。ある地域にあるNPOでは既に5千人近くの契約者がおり、最近は50代の契約希望者もでてきているという。

これ以外にも、合同墓地の生前契約もある。他の例では、孤独死を嫌い60代から有料介護施設に入居する人もいる。どのケースもその本質は、一人で死を迎える事への不安と寂しさがあらわれている。

あらためて、老後の不安は、一人で暮らす不安から、一人で死を迎える不安に変わってきた。

この問題を根本から解決することは難しい。しかし、まずこのような実態があると知ることからはじめる事が社会問題を我がこととして認識する上では重要だ。無縁死、否、無縁社会を許す国であって良いのか?もっと自分たちにできることはないか。誇れる国と人生にするために考え行動を起こせば、無縁社会は変える事ができると信じたい。

Reiwa1.0

2019年3月31日 (日)

「興味・関心」の筋トレ

 先日、家族で金沢まで足を運んだ。幼児を伴う移動のため、行き先にある程度の制限がかかるものの、金沢を訪れるのは初めてということもあり、兼六園、金沢城、金沢21世紀美術館、近江町市場など、メジャーな観光名所を回った。そして、兼六園で、妻からこんな言葉を投げかけられた。

 「兼六園、確かに美しい庭園だけど、本当の良さがわかるのは、もう少し年齢を重ねてからかな?」
 しかし、私はこの言葉に、そこはかとなく違和感を覚えた。
 「果たして、年齢を重ねるだけで、良さがわかるようになるものなのだろうか?」
 取り敢えず、すぐには答えを導き出せそうにはないので、旅行を楽しもうと思い、その場は忘れることにした。

 金沢には、金沢三茶屋街と呼ばれる3つの茶屋街(※1)が存在するのだが、最終日、帰路までの空き時間を利用して、「にし茶屋街」を訪れることにした。そこで、翌日から始まる喧騒に身を投じる前に心を落ち着かせようと、とあるお茶屋さんの戸を開いた。人気が感じられないため、声を上げると、2階から家主と思われる老人男性が降りてきた。中に通していただき、茶菓子を用意してもらったのだが、何と、勝手に金沢の歴史から兼六園の素晴らしさまで語り出した。私は静寂なひとときが欲しいがために入店したので、無論、こちらからお願いなどしていない。始めは、適当に相槌を打ちながら、早く終わって欲しいと思いながら聞いていたのだが、気付くと質問ばかりして、すっかり夢中になっている自分がいた。 

 「金沢に来て一番始めに話を聞いていたら、もっと色々な良さに気づき、楽しめたのに」素直にそう思った。
 と同時に、昨日の疑問に対する答えも浮かび上がった。
 「兼六園の良さがわからなかったのは、年齢の問題なのではなく、自分の興味・関心を十分に向けられておらず、兼六園の良さをわかるための“数多の”情報(ここで言う情報とは、兼六園にて五感を刺激するモノ、更には茶屋街の家主の語りを含む兼六園に関する全ての情報を指す)をシャットダウンしていたからではないか」と。

 

 貴方にも似たような経験はないだろうか。例えば、何回も同じ道を通っているにも関わらず、新しい趣味(Ex.ゴルフ)を始めたら、そのお店や看板が目につくようになった等である。
 どうやら、我々の脳は、情報過多になってパンクしないように、無意識のうちに情報を選別しているらしい。そのため、興味・関心を持ち、意識を向けることで、新しい情報が飛び込んでくるのである。実際、クライアントの方々にも、「(自社・自組織に対する)問題意識や興味・関心を高めて、情報感度を高めることが大事」だと伝えているが、そんな一言で、急に問題意識や興味・関心を高められる人は稀である。

 

 では、どうしたら、問題意識や興味・関心を高められるであろうか。
 今回は、脳科学の視点から、一計を案じてみたい。

 

 まず、脳に関する基礎知識として、「ニューロン」と「シナプス」という言葉を理解しておきたい。人間の脳には平均して1000億個のニューロン(結合してネットワークを形成する神経細胞)があり、殆どのニューロンが膨大な数の別のニューロンとつながりを持ち、絶え間なく交信しながら密接に連携するネットワークをつくっている。そして、細胞同士が接合する部分は「シナプス」と呼ばれ、接合が繰り返される度にシナプスの強度は強くなり、信号が伝達するスピードも速くなる。

 これを前提とすると、「問題意識や興味・関心を高める」ということも、もしかしたら繰り返すことで、強化できるかもしれないことに気付く。そして、それは筋力を鍛えるのと少し似ている。
 少し、話は変わるが、本屋を覗くと、論理的思考力やロジカルシンキングをつけようとするノウハウ本が目につく。しかし、そういった類いの本を読むだけで、楽に身につけられると考えているのは、あまりにも滑稽である。実際、身の回りでも論理的思考が得意だとのたまわる人が増えてきたように感じられるが、少し話してみると、全く身についていないことがすぐにわかってしまう。ダイエットするために腹筋が大事だと本に書いてあったとしても、一晩だけ腹筋してそれでおしまいでは、腹筋が割れるはずがない。毎日毎日、繰り返してやり続けないと決して筋肉はつかない。論理的思考はもとより、同じ脳の構造であるならば、「問題意識や興味・関心を高める」ことについても、繰り返すことが重要であり、決して、先天的なものだとは言えないのではないだろうか。

 また面白いことに、筋力と同じだと思うのは、年齢が若い方が強化しやすいという点だ。40歳過ぎたら腹筋を割るのは大変だが、30代なら半年で腹筋が割れる。20代なら3カ月で割れる。この点は、これまで様々な人を介して得た結論として、論理的思考力についても同じことが言えるので、「問題意識や興味・関心を高める」ことについても同じかもしれない。確かに、自分や周囲の人を振り返ってみると、幼い頃から何にでも興味・関心を持つ子は、大人になってもその特性を引き継いでいるケースが多い。だとすると、やはり「繰り返しの力」の作用を認めざるを得ないかもしれない。

 そこで、私が提唱するのは「ウォーリーを探せ」もとい「○○を探せ」である。ルールは簡単で、就寝前に何か一つキーワードを決めて、翌日の就寝前までに、そのキーワードに関連するもの(看板でも記事でも何でも良い)を10個探すというものだ。意外と簡単なように思われるかもしれないが、実際にやってみると、かなり意識的にならないと難しいことが肌身にしみるはずだ。人間は、何か新しいものを知る・経験すると、一種の幸福感を覚えるため、やると感動する人も多いと思う。是非、一度チャレンジしてみてほしい。

 

 

<脚注>
※1:【金沢三茶屋街】
「ひがし茶屋街」「にし茶屋街」「主計町(かずえまち)茶屋街」

ノラ猫

2019年3月22日 (金)

Digital デオクレ業界

海外旅行に行くと、ライドシェアの利便性に真っ先に気づく人も多いのではないか。ライドシェアが普及している国であればどこでも同じサービスを利用できる。まず、行き先を決め、ピックアップしてもらう場所を決めれば、到着地点までの料金を予め確認でき、渋滞で想定時間以上に時間がかかったとしても料金は予め確認した料金しかかからない。

更に、配車される車の車種、ナンバー、運転手の顔写真も事前に確認できるので、配車される車を間違えることもまずない。加えて、利用後には運転手の評価を促す画面がスマホに出てくるので、運転手は顧客満足度を上げておかないと自分の評価が低くなり、利用者から選択されないことにもなりかねない。そのため、運転手はサービス品質を一定以上に高めようとする動機も働く。まさに、運転者と利用者とシステム提供者の三方よしの形になっている。しかし、日本ではそうはいかない。道路運送法上「旅客自動車運送事業」を営むには国の許可を得ないと営業できない規制があるためだ。まさに、ライドシェア事業者にとって、日本市場の参入障壁は高い。

日本はデジタル時代への対応の遅れが、日本の生産性が低い問題に波及していると言われている。先日、日本の賃金水準が世界に劣後しているとの見出しが日経の一面を飾っていた。背景にあるのは、労働生産性の低さであり、日本の企業経営が賃上げに慎重であったことが裏目に出たとの指摘である。低賃金政策を続ける事で、生産性の低い仕事のデジタル化が進まず、付加価値の高い仕事へのシフトが進まなかった事が主要因だ。生産性も上がらず賃金も上がらない負のスパイラルである。この状況を打破したければ、賃上げショックを与えてでも生産性を上げるべきだとの主張は、説得力が上がっている。しかし、日本の大手製造業が低生産性の問題を抱えているため、平均年収も簡単には上がっていかない。そんな中、大手企業からスタートアップ企業へ転職する相場が一気に上昇を見せている。スタートアップの平均年収は、上場企業の平均年収よりも凡そ100万円程高くなっている。高い年収を払ってでも見合うだけの生産性を実現しようとする、スタートアップ企業=経営者と投資家の意思がうかがえる。いずれにしても、日本はデジタル化に向けた改革を全産業で進め、より高い生産性を追求すべきだ。

さて、話を元にもどすと、ライドシェアの利便性を享受出来ない日本では「旅客自動車運送事業」の運賃ルールを見直す動きが出始めた。あくまでも運賃ルールという名目である点が気にはなるものの、従来とは違うやり方による運賃改定である。国土交通省が主導し、乗車前に運賃を確定するサービスを全国で解禁するというものだ。これは、海外でライドシェアを経験している人から見れば、市場開放を避ける手段に映る。ライドシェアの優位性は、個々の運転手のサービスクオリティを担保する仕組みが機能していることにある。国土交通省も今回の取り組みを運賃ルール改定だけで終わらせるつもりはないのではないか。ライドシェア市場開放に向けた最初の布石なのであれば、日本の交通サービスにも大きな変化が訪れることが期待できる。将来、仮にライドシェア市場が開放され利用者が増えれば、他の交通機関にも影響を及ぼす可能性がある。既に、英米ではライドシェア利用が増えたことで、公共共通機関の地下鉄利用者減といった影響が出始めている。この結果を踏まえ、公共交通機関も根本的な生産性向上策を考えねばならなくなっている。まさに、デジタル時代の交通サービスのあり方を問い直す革新期に突入したと言える。日本においてもデジタル時代の交通サービスの革新に向け、ライドシェアの民間参入を認める規制緩和は欠かせない。Digitalにデオクレた業界の1つであるタクシー業界は、今後どこまで変わっていけるのか。市場開放無き運賃ルール改定に留まっていては、生産性向上は望めない。自ら規制の枠を取り払うことを受け入れ、デジタル時代の新しい交通サービスを日本に普及してもらいたい。

DX+

2019年3月 4日 (月)

SNS興隆時代、情報の快楽に溺れないために

インターネットの発展により我々は、容易く国境や、属性を越えて、人と関われるようになった。その繋がりやすさを加速させたのは、Facebook、Twitter、TikTokのようなSNS。これらに共通しているフォローという機能により、我々は、自分と共通点のある人物や、好きな著名人やコミュニティを、フォローし、自分にとってメリットのある情報のみを、簡単に取得できるようになった。

一方で、自分が不要だと判断した情報や、批判的な人物からの情報も、いとも簡単にブロックできるため、結果として、自分にとって居心地の良いコミュニティや情報のみに囲まれているとも言える。

こうしたネット上のコミュニティ内で意見を発すると、当然好意的な反応や同調のみが起こる。まるで自分の声が反響し、さも大多数に、同調されているかのように意見が強化されるような状態は「エコーチャンバー(共鳴室)」とも例えられている。また、自分が発せずとも、そもそも同じ価値観の人間が多いコミュニティのため、誰かのメッセージもまるで大多数が自分と同じ思いを抱いているような感覚に陥ることすらある。

こうした状態は、自分にとっては、とても心地よい状態だが、こうした「快」に浸り過ぎていると正しい情報の見極めができなくなり、目の前の情報や、自分が発する情報が本当に価値のある良い情報かどうかが、判別できなくなる恐れがある。

実際に、上記のようなネットのコミュニティでは、フェイクニュースや偏った思考もひとたび共感を示す輩が表れると、そのコミュニティ内では、そうした情報を正しいものだと自分の意見のように信じ込み、一気に拡散してしまうことがあると言われている。

筆者がSNSを使い始めたのは、大学生の頃であるが、今後は物心ついたころからSNSを使っている世代も増えていく。こうしたWEB上でのコミュニティによる人の繋がりは、より当然のものになるであろう。注意すべきは、この「快」に浸り過ぎることなく、常に自分をニュートラルに保つことだ。

そのためには、敢えてアナログに一次情報を取りに行く習慣をお勧めする。自分が興味を持った分野の第一人者や、職場の上位者でも、ショップの店員でもよい。面と向かったコミュニケーションで、その道のプロと会話をし、自分の心が動いた、その感覚を大事にすることだ。

大抵の場合、一次情報を取りに行くのは手間である。待っていれば、いつか誰かがまとめサイトやTwitterで情報を流してくれるかもしれない。しかし、直接情報を取りに行く手間と、自分の身体を動かして捉える経験の機会を敢えて作ることは、「快」を求め過ぎてきた現在の情報社会における価値ではないだろうか。また、そうした感情を伴う経験は、長期的にも記憶されやすいとされており、自身の学習面から見てもメリットがある。

いつの時代も、事実は一つだが、解釈は無数にある。

誰かの解釈に振り回されて、心地よさを得るよりも、事実を拠り所に、自分をニュートラルに保つことこそが、このSNS興隆時代に必要な「快」なのではないだろうか。

KM2

 

2019年2月19日 (火)

遊ぶ脳

 東向きのリビングは朝の陽ざしが眩しい。天気予報は気温4度と伝えているが、リビングの中は暖かい。窓辺の棕櫚竹や羊歯やサンスベリア達も、日差しを弾いてころころと喜んでいる。最初は三鉢しかなかったのに、いつの間に増えたのだろうか。数えてみたら窓辺だけで十三鉢もあった。

おせち料理にも、晴れやかなテレビ番組にも、長い休暇にもすっかり倦んだ。家族は朝から出かけてしまったし、ジムに行くのもなんとなく気が向かない。コーヒーを淹れながら新聞を読んでいると、スマートフォンから鳥の囀る声がした。開くと田中君からの散歩の誘いだった。何を思ったのか、私は10分後に“反逆者”の名を冠した愛車のエンジンをかけていた。

田中君の家の前に着くと、玄関先で待つ田中君が、豆鉄砲で撃たれた鳩のような顔をしている。窓を開けると、「まさか、ジープで来るとは……」と絶句した。5分後には、また何を思ったのか、私は高速道路の料金所をくぐっていた。

「今朝の時事討論見た? あれじゃあハラリさんの云う認知革命以前の時代だね」田中君が言う。

「ん? 政治家の話に、分かち合うようなフィクションもないってこと?」私が聞き返す。

「分かち合うべきフィクションがないどころか、自己完結しちゃってるだけのファンタジーだよ。あれならAIの方がましじゃないかなあ。この政策は目的達成確立12%ですとか、国民の8%から支持を得られるでしょうとか、そういってくれた方がずっとましだよ。そしたら、ああ僕は8%のマイノリティーかって納得して、無駄に怒ったり、余計な希望を持たなくてすむんだし、もっと創造的な時間の遣い方ができるってもんだよ。」いつもは大人しい田中君だが、今日は少し怒っている。

AIなら失言もないんだろうね」と返事をしたら、昨夜の自分の失言を思い出して溜息が出た。

 とまれ私の握るハンドルは、ほぼ無意識の内に伊豆半島の方角に切られていった。これがAIの自動運転なら、田中君にとっても、こんな迷惑な事態にはならなかったのだろうなと思って、少し笑った。いやいや、そもそも田中君を車でさらったりしなかっただろうと、少し反省した。少しだけだが。

 

 人間は、実に器用な生き物である。針の穴に糸を通したり、あまつさえ縫物をする生き物などは、地球上には人間以外にいない。バレエダンスのような身体操作を自在にやってのける生き物も人間だけだ。それらはみな、大容量を得た脳の成せる業である。しかし、一日中、年がら年中、手足を器用に動かし続ける人間などお目にかかったことがない。大半は休んでいるのである。ではお休み中の脳はいったい何をして過ごしているのだろうか。おそらく遊んでいるに違いない。眠っている時に見る夢なども遊んでいるとしか云いようがない。人間の複雑な精神活動は、脳が自らの容量を持て余し、遊んでいたことで獲得されたものだと思う。

 その精神活動だが、とりわけ感情の生成が面白い。鉱物はどんな情報をインプットしても、何もアウトプットしない。話しかけても無駄である。植物は光と水と二酸化炭素をインプットすると、律義に養分を生成し酸素を排出する。話しかけたら酸素をくれるに違いない。知能が発達している哺乳類は、知覚したインプットに対してストレートに経験学習した一つの行動をアウトプットする。我が家の犬も実に従順なものである。

ところが人間の脳は、五感が一つのインプットを知覚すると瞬時に沢山の感情を生成するらしい。例えば、ドアを開けた時に床に人が横たわっているのを見たとする。しかも、近くには赤い液体がこぼれているとする。そんな光景をインプットされた脳は、危険なのか危険ではないのか認識できない段階では、恐怖という感情をつくるのと同時に好奇心という感情もつくっている。驚きとか、不安とか、嫌悪とか、そんな様々な感情が行き来する。で、そのどれかを選択すると、選択された感情が行為を引き出す。例えば、好奇心に駆られてつついてみるとか。そして、ただの酔っ払いが、トマトジュースをこぼして泥酔していた、などという落ちになる。

人間の脳は、それぞれの感情がもたらす結果を、過去の記憶と照会しながら予測し、比較して、選択する。そして、選択した感情に導かれて行動する。そのようにできているそうだ。

従って、人間の行動には必ず意味がある。どのような記憶を演算して、どの感情を選んだのか、という意味である。やっかいなことに大概は無意識の選択だ。しかも人間は、同時に複数の感情を生成するがゆえに、悩み、迷う。選択しなかった感情まで記憶されているそうで、奇特なことに、選ばれなかった感情までも、いちいちその後の選択に参加する。これら一連の精神活動を心というのだそうだ。

だとすれば、私の心はいったい何をしでかしたのだろうか。どうして田中君をさらってドライブなどしているのだろうか。このほぼ無意識の選択はいかなる感情の仕業なのか。きっと脳が何かを知覚して私の心が遊びだしたのだ。犯人は新聞か、窓辺の植物たちか、はたまたコーヒーの香りか。スマートフォンの広告だったらと思うと、少し嫌な気分になる。

以前、感情の数はどれだけあるだろうかと唐突に思いついたことがある。脳が遊ぶままにざっと数えてみたのだが、24個で諦めた。少し調べてみたことがあるが、感情は、母性本能と生存本能と知性との3つの幹から発生するという。そこから千々に枝分かれして増えていく。しかも、感情と感情をシェイクすると、全く別の感情のカクテルができるらしい。例えば、勇気という感情だが、それを生成するためには、恐怖と愛情と希望の3つをシェイクすることが必要になるのだそうだ。なるほど恐怖と縁遠い環境に棲むサラリーマンに、勇気を出してチャレンジを、と言っても難しいわけだ。

一方で人間は、自分が選んだ行動の意味をはっきりと自覚することもあるらしい。すると、その感情は意思になるのだとか。意思を伴って記憶された感情は、よく似た意思決定を繰り返すらしい。無意識の選択だけではないのだとほっとする。さては人間の脳には、感情生成システムと意思決定システムとの2つのOSがインストールされているのか、と思い当たる。無論、それだけではないだろうが、この推論には自分で納得した。自分で納得しているだけなので、もっとちゃんと調べてみなければならない。

そういえば、去年売れたと云われている商品は、どんな感情を引き出すことに成功したのだろう。隣で退屈そうにしている田中君に検索をしてもらうと、安室奈美恵、ドライブレコーダー、ペットボトルコーヒー、ZOZO、グーグルホームにアマゾンエコー、君たちはどう生きるか、aibo……。なるほど、失われる喜びへの焦燥感、回避したい不安、時代遅れになることへの恐怖など、次々と解りやすい感情の名前が出てくる。しかも上手にそれを煽っている。まだランキングを読み上げている田中君をおいてけぼりにして、売れなかったなあ、と思い出される商品を振り返ってみると、確かに何かの感情が湧いてくる気がしない。そうか、よい商品をつくると云うことは、感情生成のメカニズムをデザインすることなのだと自分の思いつきに満足する。更に、意思をもって選ばれるようになるとブランドになるのかと思いついてほくそ笑む。ふと我に返ると、隣の田中君が眉根を寄せて訝しんでいた。この思いつきについて田中君と議論してみようかと思ったが、面倒臭くなりそうなので、やめることにした。

 

コンピューターは、インプットされた情報からまっすぐに1つの答えを導き出す。植物のようなもので裏切らない。AIも同じで、人の感情は理解するが、迷うことも悩むこともなく1つの答えを導き出す。つまり、今のAIはまだまだアトムにはなれないし、それで良いのだろう。いちいち一緒に悩まれてはたまったものではないし、私のように毎度突拍子もないことを思いつかれても困ってしまう。しかし、どんなインプットをすれば、どんな感情が生まれるのかは、理解してくれるかもしれない。だとすれば、田中君よりましではないか。我が家にも是非一人、AIを買いたいものだと、私に、私の感情が命令した。

 

 そんな思いをとつおいつ、気が付けば、車は西伊豆の戸田の港町に到着していた。赤松の巨樹が林立する丸い入り江が美しい。運転していた自分の意識を思い出そうとしてみるが、とぎれとぎれで思い出せない。半ば眠ったような状態で運転しをていたのだろうか。実に危ないことである。

海辺の町は静かだった。戸田の港町は眠っているようだ。

方丈の庵

2019年2月 5日 (火)

農家を金のなる木にするためには・・・

 ここ最近、ほとんど目にすることがなくなった言葉に「食料自給率」があります。数年前のTPPへの参加是非で大騒ぎだった頃には、日本の農業が壊滅するだのと激しい論争が戦わされましたが、そのTPP反対派の拠り所になっていたのが、食料自給率でした。食料自給率を改善するには、農業従事者の増加に加え、農業従事者の若返りが急務ですが、職業としての農業は若者からは見放されて久しく、今後農業に飛び込んでくることはほとんど期待できないでしょう。

 農業、畜産業に代表される第一次産業の人気が無いのは、最先端であるようなイメージもなく、どこかカントリーを感じさせる雰囲気、なによりきつい肉体労働であること、そしてほとんど儲からないことなど、若者が魅力を感じる要素がほとんどない職業だからです。

 元々社会が発展するに従い、第一次産業就業者から高付加価値産業と言われる職業従事者のシフトが始まるのが経済学の定石ですが、人が生きていく上で絶対に無くならない、「食べる=エネルギー補給」という最も根幹部分を供給する産業が壊滅寸前というのは、国家にとって憂慮すべき事態ではないでしょうか。

 ここ数年で注目されることが多い大間のマグロ漁師なども高齢化は深刻です。一本釣り上げたら百万以上の実入りがあると言われていますが、そのようなケースは稀で、入漁期間や漁獲量の制限、操業できるのは天候次第などの収入の不安定さ、荒海に出て操業する危険と隣り合わせの職業であり、若者に人気があるとは言えません。これら第一次産業を人気の職業にすることはできないでしょうか?

 ここでは農業を中心に、若者が続々と飛び込んでくるような策を考えてみたいと思いますが、わかりやすいのはネガティブに感じる部分を払拭することです。

 まず、きつい肉体労働である点ですが、GPSやAIなどのITによる農業機器の発展で、機械化できる範囲が確実に増えており、以前よりはきつさは緩和されてきています。特に労働集約型の仕事のきつさ度合いは、得られる対価によって変わってきます。後述する方法で農業が儲かるビジネスに変貌すれば、労働の対価として高額な報酬が期待できる高収入職業ということになり、きついから従事しないというマインドは希薄化されることになります。

 次にほとんど儲からないという点についてですが、農業が儲からない要因は大きくわけて2つあります。一つ目は、生産者に価格決定権がないことです。価格は需要と供給のバランスで決まりますが、農業にはこの図式が当てはまりません。製造業であれば標準小売価格(またはオープン価格)は生産者が決めます。しかし農業は、JAを通して出荷することがほとんどで、その場合は一括してキロ○○円という形で買い付けられることになりますが、その際の買値は、買い付け側が市場の状況を見て決めることになります。生産者が○○円で売るという希望が反映されることはありません。

 このような仕組みができあがったのは、農家が個別に営業(販売)する機能を持たなかったため、地場のJA(旧農協)が農家をとりまとめて営業機能を一手に引き受けたことにあります。営業だけでなく、農家を支援するという大義の下で、農家にとって面倒な業務である、物流(市場までの配送)、金融(現金化)業務も代行し、さらには農業指導、共済事業や物販まで担うようになり、JAに任せておけば大丈夫というような広範囲なサービスを提供するようになりました。これによって、農家は生産活動に集中できるようになりましたが、その代償として価格決定権を放棄(JAに委ねる)することになったのです。

 JAでは生産した物を、基本的には総量買い付けするので、生産者は在庫や売れ残りの心配が無いことなどのメリットがありますが、極めて安く買い付けられてしまうこと、一括して同価格での買い付けになるので、個々の農家が努力して品質のよいものを生産したとしても、その努力や工夫が報われないという結果になり、農業を儲かりにくい産業にしてしまいました。実際に、最終的な小売価格は小売業が店に並べる値段となりますが、生産者が出荷した価格よりも数倍以上の価格が設定されることになります。

 もう一つは、日本の消費者の知識不足があります。国内の農家が育てた農産物は、諸外国産の農産物に比べて格段に安全で高品質であることの実態を知らないと言うことです。単に無農薬や有機農法ということではなく、農産物の生産に欠かせない豊かできれいな水、汚染が極めて少ない空気や土壌がもたらす環境が、日本の農産物の品質を高めることにつながっています。しかしコストに敏感な消費者は、国産よりも価格の安い(農水省の基準を満たした農薬や肥料を使用した)外国産の農産物が大多数を占めるようになっています。国産は「良い品物であるが高い」という部分の、「良い品物」のレベル感が外国産とは比較にならないということなのですが、日本の消費者はその点を理解して高い国産を買えばよいのですが、そうはならないでしょう。

  この2点をクリアすることができれば、日本の農業は一転して儲かる産業に変貌することになります。その方法とは、生産者がJAなどを通さず直接販売すること、そしてその販売先として海外の富裕層をターゲットにすることです。直接販売(直販ルート)は手間がかかりますが、価格決定権は生産者側にあり自身の生産した農産物の品質に見合った価格設定が可能になります。

 また、海外の富裕層は日本の高品質な農産物のことを日本人以上に知っており、高い価格設定でも喜んで買っていきます。まずは、中国の富裕層をターゲットにするとよいでしょう。一説には中国には3000万人以上の富裕層といわれる人たちがいると言われています(日本の人口の25%に匹敵する富裕層が存在しているというのは驚くべきこと)。彼らは自国で生産される農産物の危険性を知っており、ほとんど口にしないといいます(自国の農業環境は、土、水、空気のすべてが汚れており、そこで生産される農産物は危険だという認識)。その点、日本などで生産される農産物は安全高品質なので、プレミア価格で取引され富裕層や高級レストランに運ばれているのです。その量は富裕層の需要には全く対応できていないので、中国人バイヤーが日本で直接買い付けることもあり取引価格は過熱気味です。

 例えば、日本の和牛は中国でも大人気で高い価格で取引されています。しかし、日本から中国へは牛肉の輸出はできません。これは過去のBSE騒動の名残で、中国政府が全面的に輸入禁止措置をとっているためですが、中国の食肉マーケットには日本産和牛が並び、高級レストランでは”WAGYU”は人気食材になっています。輸入制限を回避するために、日本からカンボジアに輸入し、そこから中国に持ち込むというルートで取引されます。この方法では物流コストは跳ね上がることになりますが、安全で美味しい日本の食材には金を惜しまない、それが富裕層の考え方なのです。

 このように農家が海外の富裕層向けに直接販売していくことで、日本のJAに出荷するよりも遥かに高く販売することができるようになります。直販はインターネットでの販売により、誰でも容易にできるようになりました。物流は現代の物流業者のルートに乗せてもよし、海外専門の買い付け業者に直接販売する方法もあります。これらの方法で、日本の生産者が「直接」「海外の富裕層(またはバイヤー)」に販売することを始めれば、現在の数倍から十数倍の収入を得ることが可能となり、一気に儲かる産業に変貌します。そうなれば新しく若い人たちが農業に目を向け始めるかもしれません。

 なお、農地のある田舎でしか就業できないという点もネガティブですが、今後の働き方改革でのテレワークの拡大で、都心で仕事をすることの意義はこれから希薄化していくでしょう。そうなれば田舎で就業することが強いデメリットではなくなります。デジタルネイティブな若者達が、サイバー上のコミュニケーションツールをフル活用し、相互にやりとりされる情報は物理的な距離を克服して、全く新しいアグリビジネスの姿が生まれてくるかもしれません。

 日本の農業は今のままでは、担い手の不在で自然消滅していく運命でしょう。日本の消費者の財布の紐は固く、賃金も上がらない状態では、農業を儲かる業態に変貌させるほどの値上げは許さないでしょう。もう日本の消費者の需要量や購買力では、衰退する農業を救うことはできないのです。日本の安全で高品質な農産物の価値を本当に知っているのは、自国が水不足や公害に悩まされている海外の目利き達であり、日本の消費者自身が日本の農産物の本当の価値をわかっていないというのは実に皮肉なことです。日本の農産物のほとんどが海外で売られ、日本のスーパーの棚にはTPPで安くなった外国産農産物が並ぶ、そのようなある意味ブラックな世界がまもなく現実になることでしょう。

マンデ